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馬内・大湯等の拠点の町を預かり、大支配と称して藩直轄地を含め、広域にある種の権限を有していたなどは、

潘内他地域には類例の少ない特徴である。文化五年(一八〇八)幕府に書き上げた領内五カ所の要害屋敷の性格

は必ずしも明確ではないが、その内の花輪・毛馬内の二カ所は鹿角の在名である。このほか、藩政初期に江戸で

召抱えられた中堅諸士の知行所が鹿角に集中しているのもその特性の一つであろうし、これ等の相乗から来る特

殊な行政も見られる。

南部氏の支配になる

鹿角がいつ頃から南部氏の領有する所となったかについては諸説区々である。一般に

は、南部氏が鹿角に勢力を伸ばしその一角を領有したのは戦国時代の末期、天文期以

降のことであると考えられている。

当時の鹿角をとりまく群雄割拠の情勢を概観すれば、東に三戸城主南部氏があり、西には桧山城主安東氏が〓

青森

った。南部氏は鎌倉期以来三戸郡

)を本拠として北奥に勢力を有し、更に南に接する岩手・志和二郡を堂

県

南秋

中に収めるなど南方拡張策を取り、鹿角領有もその一連の行動の中にあった。一方安東氏は秋田(〓

)、桧山

田郡

山本

北秋

一の二郡を領有して確固たる勢力を有していたが、東進策をもって比内地方

)を攻略、その延長線上

郡

田郡

にある鹿角をも領有すべく、更に軍旗を進めんと画していた。かくして鹿角占有をめぐる南部・安東両氏の確執

は熾烈をきわめ、南部氏優位の中にも、語り伝えられる永禄の石鳥谷城・長牛城・谷内城の攻防戦など、一連の

〓戦を経て、南部氏の確固たる鹿角支配が成立していくのである(

「鹿角市史』第一

巻第四章参照

)。

しかし南部氏の鹿角支配確立が名実共に完成するのは、天正一八年、豊臣秀吉によって鹿角が本領の内である

ことを公認された時期まで待たねばならない。同年七月二七日付南部信直宛の豊臣秀吉書状は五カ条からなるが、