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第一条は本領たる「南部内七郡」を認知すること、第二条は妻子を人質として在京せしむること、第三条は領内
破却の
検地を実施し軍役に勤めること、第四条は領内の諸城の城割(
)を命じ、諸士を三戸城下に居住せしむる
こと
こと、第五条は罰則となっている。
一、南部内七郡の事、大膳大夫の覚悟に任すべき事
覚
一、信直妻子は定めて在京仕る可き事
一、知行方検地せしめ、台所入り丈夫に召し置き在京の賄相続き候様に申付く可き事
一、家中の者共相抱え、諸城は悉く破却せしめ、則ち妻子は三戸へ引寄せ召し置く可き事
一、右条々異議に及ぶ者之れ有らば、今般御成敗を加えらる可く候。堅く申付く可き者也
以上
天正十八年七月廿七日(豊臣秀吉朱印)
南部大膳大夫とのへ〓
南部家旧蔵文書・盛
岡市中央公民館蔵
南部内七郡考
実はこの書状のうち、第一条によって鹿角を含む七郡が認知されたと言われているものの、個別の郡名が明示
されず領域不確定なばかりでなく、この種のものとしても異例の書状であることは言を俟たない
秀吉朱印状の南部内七郡について『岩手県史』は北郡・三戸郡・二戸郡・九戸郡・鹿角郡・
閉伊郡・岩手郡の七郡であると言い、これがおおむね定説化している。しかるに天正二〇年
六月一一日付をもって領内城割の状況を豊臣政権へ報告した南部家重臣八名連名になる「奥州南部大膳大夫分国
「篤焉
諸城破却共書上之事」(
)によれば、記載されている城数四八カ城にはそれぞれ郡名が付されており、稗
家訓』