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軽三郡、合浦一円、安堵の御教書を下し賜りければ、備中面目を施し帰国せり」とあり、津軽三郡とは田舎・平
負・鼻和三郡をいうのであるが、この事件が大きく影響していたと考えられるのである。『豊臣時代史』(田中義
成著)はやや長蛇の嫌はあるものの、この間のいきさつを次のように解説している。
奥州では)伊達氏以外にて最も早く秀吉に使を送りし者は南部信直、津軽為信の二氏なりとす。(中略)
爲信は旧大浦と称し、南部信直の弟政信に事えたり。政信津軽郡代として波岡城に居り、為信之が輔佐とし
い郡内叛族の裁定に功あり。遂に独立の志ありて私に使を秀吉に遣わしたるものなるべし。後十六年に至り
遂に政信を毒殺して津軽郡を奪い、南部の一族九戸政実、亦信直に背きて為信を援け、共に南部氏に抗する
に至れり。(天正)十八年二月二十七日津軽為信は遂に駿河に上り、秀吉の東征を待ちて沼津に謁し、津軽
一郡安堵の朱印を得て茲に独立の諸侯となれり。(中略)同十八年南部信直(は)其子利直と共に小田原に
至りて秀吉に謁し、津軽為信、九戸政実二氏の叛逆を訴えて之が討伐を請う。然れども秀吉は為信の既に来
り謁し、且つ安堵の朱印を与えしを以て之を聴さず、小田原平定の後奥羽に下向して政実を討つべきを諭し
て帰国せしめたり。信直為に遺憾遣る方なしと雖も之を如何ともする能わず、茲に津軽は全く為信の有に帰
しぬ。されば南部は津軽を目して叛臣と呼び、世々之を悪み、津軽は又南部の臣にあらずと称して永く之〓
対抗し、江戸時代を通じて両家は相敵視して解けざりき。今日に至るまで其旧領民は互に相悪むと云ふ
(祐清私記、奥南盛風記、奥南旧指録、南部根元記、南部家譜、南部旧話集、津軽旧記、津軽聞記、津軽家
譜、津軽一統志、奥羽永慶軍記)
南部氏は糠部・鹿角・閉伊・岩手の四郡のほか田舎・平賀・鼻和のいわゆる津軽三郡を合わせた七郡を本領と