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して申告し、その安堵を願い出たものと類推される。しかるに豊臣秀吉は、同政権に参じた者に本領を安堵する
立場であり、津軽三郡はすでに津軽為信に安堵されていたことから、あくまでも郡数七郡そのものを安堵し、そ
の後津軽三郡の代替地として志和・稗貫・和賀三郡を追加したものとみられる。すなわち南部領の領域七郡とは
当初より「南部大膳大夫分国諸城破却共書上之事」にみられる「稗貫郡」「和賀郡」「志和郡」「岩手郡」「閉伊郡」
「鹿角郡」「糠部郡」の七郡であり、とりもなおさず寛永一一年徳川家光領知状にみえる「陸奥国北郡、三戸、二
戸、九戸、鹿角、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀」の一〇郡に相当するものであり、その確定時期を天正一九年
と判断するのが至当であると考える。
けだし、右の書上は原本の所在は不明ながら諸書に伝承されており、中でも『篤焉家訓』は管見する類書中、
書状の差出人たる連署者重臣の花押影を伝える唯一のものである。あえてこのことを記す理由は、結論を急げば
肝心の花押影に疑問なきにしもあらずで、考証結果によっては史料自体の信憑性にも係わるものとなるからであ
る。しかし同書状はそれを越えて藩政初期における領域概念を充分に伝えるものである。それは延宝七年一一月
に鑄造され、今日旧盛岡城内鎮座の桜山神社に現存する盛岡城時鐘在銘「所領大郡所謂和賀、稗継、志和、岩手、
閉伊、鹿角、階上七郡也」とあるところから傍証されるからである。銘文の選者は不明ながら右七郡についての
概念は藩主をはじめ、藩主脳部において当然の常識であったことは明確である。なお稗継は稗貫であり、階上に
『奥南
ついては「階上郡とは、二戸、三戸、九戸、北郡也」
で、糠部郡と同域異称ということになり、天正一
余録」
〇年書上の傍証が成立することになるのである。
その後、豊臣秀吉は慶長三年八月伏見城に没し、同五年徳川家康は関カ原における合戦の末、天下を掌中に収