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めた。南部氏は信直没して利直の代となっていたが、旧領をそのまま安堵され、爾来、明治維新に至るまで子孫
連綿として相続することになる。その間、領域については寛文五年(一六六五)の八戸藩分置に伴って若干の変
更をみるが、家禄は同年八万石、貞享元年(一六八四)一〇万石となり、更に文化五年(一八〇八)二〇万石と
変遷する。
幕藩体制と盛岡藩
徳川家康は慶長八年(一六〇三)二月、征夷大将軍に補せられて幕府を江戸に開設した。
吋に盛岡藩主南部利直は治府盛岡城を建設中であり、未だ三戸城にあったが、旧領一〇
万石を安堵された
『江戸時代制度の
研究』松平太郎
)。その後、利直の子、重直の代に至って寛永一一年(一六三四)八月四日付領
地安堵の判物を三代将軍家光から宛行われている(七頁参照)。同書状は大御所と尊称された前将軍秀忠の死去
に伴って、幕府が従来の二元政治を解消し、将軍親政に移行したことを天下に遍ねく知らしめる目的をもって発
給したもので、例えば同年に実施した諸国巡見使発遣等も同一の意義を有し、その後も将軍代替りの都度発給さ
れるのを例としている。
ちなみに領知状には判物と称せられるものと、朱印状と呼ばれるものとの二様式がある。判物とは将軍が花押
を認めて発給する書状様式のもので対象は領地一〇万石以上の大名であり、一方朱印状は将軍の朱印を押捺して
一〇万石未満の大名へ与えたものである。両書状は、基本的には次に示す誓詞と同様に、将軍と大名との主従関
係を確認し、併せて大名の領主権を認知するための書状であった。
誓詞提出のはじめは慶長一六年(一六一一)四月一二日、在京の諸大名を二條城に集めて誓約せしめ、更に羽
一七年正月一五日、南部利直など東北の諸大名をはじめ未提出の大名に提出させたのを嚆矢とし、爾来、将軍代