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め、その論功行賞として花輪城代に起用され、かつ釆地として鹿角郡花輪村、尾去村、石鳥谷村、三ケ田村、谷

内村、神田村、夏井村の七カ村、高にして三、八〇〇石を宛行われた。没年は不明ながら、遺跡を相続した実弟

正徳に元和二年(一六一六)一〇月二八日付知行状が与えられているところから推して、元和二年であったとみ

られる。初名を光愛と称しているが、正親の名は世子利正(二七代利直の初名)から一字名を与えられて改名し

たものである。

二代大光寺儀太夫正徳

初名を喜太夫と言い、正親の実弟である。兄正親に嗣子なく遺跡を相続したと知られる。次に示す知行状によ

ると元和二年の遺跡相続であったと推定され、寛永八年(一六三一)に没している。その期間を在職期間である

とみれば一五年間の在職ということになる。妻は旧花輪館主の裔円子惣五郎定親の女と伝えられているが、事蹟

については不明である。

大光寺喜太夫宛利直黒印状

已上

〓)七石

爪郡鹿角花輪村弐千三百□七斗五升五合、同神田松山村百四拾六石七斗六升八合、同谷内村ニ四拾七石壱斗壱升

八合、合弐千五百石、全知行可仕者也。

元和弐年十月廿八日利直印

和弐年十月廿八和〓光太

大光寺喜太夫殿