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この知行状によれば、遺跡三、八〇〇石のうち二、五〇〇石を相続したかたちになっているが、『参考諸家系図

正徳譜は「正史を按に此時残千三百石の内五百石を大光寺主殿に玉ふ」としている。八〇〇石は公収とみられ

るが、主殿なる人物にかかる血脈ならびに事蹟は不明である。なお正保年間の盛岡城下図に「大光寺主殿」の屋

敷位置(

日影門

外小路

)を確認し得るから、実在の人物であることに間違いはない。

三代大光寺儀大夫正邦

幼名を林茂丸と称し、正徳の嫡子である。寛永八年父正徳の死によって遺跡を相続したが、事蹟ならびに没年

は不明である。妻は中野吉兵衛正康の女と伝えている。

大光寺林茂丸宛利直黒印状

以上

京郡花輪村弐千三百七石七斗五升五合、神田村百四拾六石七斗六升八合、谷内村四拾七石壱斗壱升、合弐千五百石、

親儀太輔跡無相違遣候。全知行可仕者也。

寛永八年八月朔日

利直印

寛永八年八月朔日利直印

大光寺林茂丸

四代大光寺宮内大夫正治

正邦の嫡子であるが、家督相続の年月は不明である。寛永一一年将軍家光の上洛に際して供奉した藩主重直の

供人三、二〇〇余人の中に「二千五百石、大光寺宮内、鑓五本、鉄炮五挺、弓二張、脇馬一騎、馬(口取)四人、