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代の時代から二人制による城代の時代へと移行するのである。

二人制城代の時代

藩内各地における主な城代についてその変遷を概観すれば次の如くである。横田城代は

兀和元年以来二人制となり、寛永四年に八戸弥六郎が遠野通を一円支配をするに及んで

実質的に廃止された。花巻城代は廃藩の時期まで唯一存置された特殊なケースであるが、寛永三年以来二人制に

移行している。郡山城は初め中野吉兵衛父子が城代として預かり、次いで盛岡城建設中の一時期、寛永六年から

数年間藩主の居城となったが、その後盛岡城に治府を移す寛永一二年に及んで二人制による城代が復活し、寛文

七年の廃止まで続く。このほか八戸城代は、寛永四年に八戸弥六郎が遠野へ知行替されるに及んで、以来二人制

の城代が設置されたが、寛文五年の八戸藩創立によって廃止、福岡城代についても寛永一二年に廃止されている。

なお三戸城代については『邦内郷村志』』に寛永年中より城代が置かれて承應年中に平士在勤となり、その後貞享

年中に廃止されたとしている。

このような情勢の中で、花輪城代は寛永二一年(推定)に大光寺氏が衰亡して二人制の時代に入るが、『花論

御城伝記』および『先年館主御城代次ニ御郡代御境奉行覚』によれば、慶安三年

寛永一二年

の誤り

)の頃から城代

一本御

郡代

として目時勘太夫、野田内匠、波岡勘解由左衛門、米田四郎兵衛、下田覚左衛門、太田縫殿、山田太右衛門、桂

七郎兵衛、儀俄八郎兵衛、安田覚太夫の諸士が記載されている。『花輪御城伝記』は更に「右人数御境奉行にて

御郡代兼帯、万治元年迄九年間相勤(る)と云」と補記している。この諸士のうち野田内匠については在任有無

の傍証は得られず、山田太右衛門については花輪代官と推定される。歴代の城代については全貌不明ながら第

表の通りであり、同心(足軽)三〇人を預かっている所から推して物頭相当の格であったと考えられる。