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城代の職掌
花輪城代の職掌についてまとめられた資料はなく管見であるが、『花輪御城伝記』によれば歴
〓の城代を列記した末に「右人数御境奉行にて御郡代兼帯」とあり、この文言からすれば花輪
城代の固有の職分は御境奉行であるようにみえる。確かに花輪城代の職掌の中で御境奉行的任務の比重が高かっ
たことは、定員二名としながらも隣接秋田藩との境論の激化から一名は完全に専任者的立場となり、補充者を入
れて実質三名態勢であったことからみても傍証される。しかし本来の職掌は大光寺氏の時代から藩境の治安維持
であり、庶政全般の統治であったことは『雑書』にも垣間みることができる。主なものを列記すれば左の如くで
ある。
一、関門に係る統轄(寛永二一年七月二六日条)
一、代官・蔵奉行の管理統轄(承應二年一一月朔日条)
一、切支丹改め、戸籍に関する事項(正保二年五月二一日条)
一、百姓扶助等、民治に関する事項(明歴二年一一月二三日条)
一、牛馬取締に関する事項(慶安五年六月一三日条)
一、隣接藩に係る応接事項(慶安二年八月六日条)
一、御境古人の統轄(御境古人頭、つまり御境奉行の職務)
二名の城代は一定期間の交替制によって勤番したと考えられるが、任期については明らかではない。波岡勘解
由左衛門の場合は在勤中に妻子の花輪移住願を提出し
「雑書』慶安四年
八月一六日条
)、七年間の在番であった。その後任である
儀俄八郎兵衛は二人制の廃止時まで六年間の在番で、両氏は共に長期勤番の例である。目時勘太夫の場合は主に
秋田藩との境界争論を担当したとみられ、江戸会所への出張が多かったため、一〇カ年の間に花輪城代勤番は前