テキストを表示
「羽陰
事件(
等にかんがみ、確証はないながらも寛永二〇年移転説が有力である。なお歴代葬地の関連からすれ
史略」
は、大円寺に葬られたのは二代政次が唯一である。
毛馬内靱負則氏が大湯に移転したあと、毛馬内城に入ったのは毛馬内三左衛門直次である。『系胤譜考』によ
れば毛馬内靱負佐信次の四男であり、天正一四年に新規に二〇〇石を与えられ、同年遠野城代に抜擢され三〇〇
石の加増を得て五〇〇石となった。その後漸増して八〇〇石を宛行われ、慶長七年家老職に列なり藩治の中枢に
あった。正保二年(一六四五)二月致仕、家督を嫡子九左衛門長次に譲り隠居した。九左衛門長次は寛永一〇年
部屋住にて近習を勤め、家督相続の後部屋住料等を併せて一、三〇〇石を宛行われた。承應元年(一六五二)よ
り家老職にあり、後年寛文四年(一六六四)一二月藩主重信襲封の際に、家督御礼の家老として将軍家綱に謁見
系胤譜考
している(
これと前後し、明暦三年(一六五七)八月九左衛門長次が花輪締りのため知行替をもっ
篤焉家訓
○花輪城に移り、毛馬内氏による毛馬内城守備体制の時代は終っている
「系胤
譜考』
。
替って毛馬内城に入ったのは、桜庭兵助である。桜庭氏の制度を「御館御預かり且つ御境御警衛のため武器並
に御境古人、御山見御同心、在御山見、御館附御同心等を預かり」御境御山役両人を家士の中から選び、秋田藩
との間の事務折衝の任に当ったのは毛馬内氏以来の旧規の事柄である
桜庭氏由緒『覚』
高橋
高橋家文書
)としていることから、毛
馬内氏の制度もおそらく同様のものであったと思われる。
桜庭氏は、本姓を宇多源氏佐々木氏といい、南部氏初代光行の奥州下向に際し建久二年(一一九一)甲斐国か
ら随行したと伝える甲州譜代で、安芸・福士・三上各氏と共に四天王の一人に数えられる家柄である。降って戦
国時代、桜庭安房光康の代に南部氏の閉伊平定があり、爾来その軍功により閉伊郡を中心に知行所を有したが、