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明暦三年同郡千徳より毛馬内に入るに至ったものである。
即ち、毛馬内通に係る藩境警衛を桜庭氏が預かり、一方花輪通に係るそれを毛馬内氏が預かる体制となった。
これに附随する特権を、桜庭氏は毛馬内大支配といい
「毛馬内郷土史資料〓旧
藩時代の部』伊藤良三編
、花輪にあった毛馬内氏の場合は不
明ながら、後年毛馬内氏に替った花輪南部氏(中野氏)の称する一円支配
「雑
書
)は、毛馬内氏以来の継承である
と推定される。なおこの特権は大湯城を守備した赤尾氏も有しており、後年の大湯南部氏(北氏)も継承して大
湯大支配と称している(
元文三年『諸士知行所出物諸品井境
書上』『毛馬内通大湯村北領由緒書」
)。
毛馬内町は従前桜庭氏の支配同様の預かり町であったが、寛政八年(一七九六)桜庭氏の毛馬内町に対する御
用金附加に端を発して、毛馬内代官と同所御給人等がその非を藩に訴訟する事件が起きている。裁許の結果代官
所側の勝訴となり、以降毛馬内町は桜庭氏の手から離れ代官支配となるに至った。花輪町の場合は、明和二年
一七六五)尾去沢銅山が藩の直営となった際に花輪南部氏(当時中野氏)の手を離れ代官所支配となった経過が
あり、一脈相通じるものを窺わせている。
毛馬内町における両者の言い分は、まず代官所側は「元来毛馬内町は藩が桜庭氏に預けた町であり、支配町で
はないにも拘らず知行所同様の取扱いを受けるのは承服しかねる」と云い、一方桜庭氏側では「毛馬内町を知行
地と認識して町の発展に力を添えてきた。然るに天明三年の凶作に際し、町人の中から献金によって多くの所給
人が取立てられるに至った。特に代官所詰となった給人は威勢を振い、町人としての立場で桜庭氏の家士に支配
されることを心好く思わなくなってしまった」と云い、構造的変化のあることを指摘している
桜庭氏由緒『覚』
高橋
局橋家文書
)。
然し結果として、毛馬内町は桜庭氏のいう代官所詰となった給人達の意見に押され、その支配を離れることとな一