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その後、毛馬内靱負則氏が江戸証人番を勤仕中、明暦二年(一六五六)一一月無嗣のまま病死し、家禄二、〇
〇〇石は没収、家名は断絶した。代って大湯城を預けられたのは赤尾又兵衛、同伊兵衛の兄弟である。
赤尾氏は宇多源氏浅井氏と伝え、近江国浅井郡赤尾村
滋賀県伊香郡木
之本町赤尾カ
)の在名によって赤尾氏に改めたという。
出自は明らかでないが、赤尾伊織頼賢は同国浅井郡に住し高橋若狭忠高に仕え、のち浪人となった。頼賢の子又
兵衛卓頼、伊兵衛頼茂は明暦三年江戸において南部重直に召抱えられた
一参考諸
家系図」
)。明暦三年八月、
花輪村エ毛馬内九左衛門知行替、九左衛門跡地毛馬内村エ桜庭兵助知行替、毛馬内靱負知行所エ赤尾又兵衛七百石、
同伊兵衛三百石知行替、今日被仰出、九左衛門勘左衛門申渡之。
(
『身帯並御加増分地被召出類』
暦三年八月五日条・南部家文書
石のように知行替が行われ、同年一〇月一一日には兄又兵衛は花巻城代にも任用されているが、赤尾氏の大湯城
預かりはそのままであった。然し寛文五年(一六六五)五月御暇を願い出て許され、六月三日花輪代官及び毛馬
内代官を城請取使として城明渡しがなされている。
一、
赤尾又兵衛
同伊兵衛
御暇下され度旨江戸において川崎殿、橋本太郎左衛門殿達て申上げられ候由にて御暇遣され候間、又兵衛、伊兵衛
(申渡すべき由江戸より仰せ越させられ今朝弥六郎所ニて九左衛門、弥六郎申渡、御横目岡本孫左衛門。
、同日又兵衛、伊兵衛御暇下され、上下拾三人にて登り候内女上下二人、男子二人、鬼柳通手形出す。
(『永暇被下類』南部家文書)