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文政七・七・八死
岩太郎
文政六・一二・九御席詰
文政一三・一二・二五御席詰
天保一一・家督
升に改めらる
天保四・一一・一一休息
弘化五・五・一三大老
天保七・九・二〇御席詰再勤
嘉永六・一〇・一五致仕隠居
天保一一・正・二七死
文久元・三對居御免逼塞
文久二・四逼塞御免
文久三・四・五死
明治三七・四・二六死六七
三、通制の成立と代官支配
花輪通・毛馬内通の初見と成立
盛岡藩では地方行政区分としての代官支配区域を「通」と称した。藩が明
〓政府に申達した書状に「南部旧領を二五通に分け、通毎に代官所と唱候
役所を建置云々」とあるのは簡潔にして明解な表現である。南部領内では古くから「通」の言葉に地方とか地域、
方面の意味をもたせ、『雑書』に「堀野通、葛巻通、達曽部通、志和東根通
慶安五
年七月
小坂通
承應元、
年十月
鹿角通
天和二
年七月・
などと記載して名残りを留めている。つまりこれ等の慣用語が制度上の名称に定着したものと推定される。
盈岡藩において「通」が制度化された時期は詳らかではないが、『慶安五年御支配帳』によって、領内一〇郡
中に八戸、三戸、花輪の三城代と四四代官所の存在が確認されている。しかし、その後においても代官所が四戸