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輪代官の異称であることは明らかであるが
「雑書』天和元年
〓月二二日条
、これ等代官の職掌、支配区域等は全く不明である。
「雑書』承應元年(一六五二)三月一二日条に「毛馬内御蔵入御代官山田多右衛門被仰付、高屋仁右衛門代り」、
同じく同年一二月一八日条に「鹿角御代官小平惣左衛門、又重長左衛門、当御年貢米去十三日皆済之由、花輪御
城代を以申上ル」とあることなどから推して、花輪城代の管轄する蔵入地支配の代官であったことはほぼ考えら
れるところである。
代官には、初期以来おおむね五〇石から一〇〇石前後の藩士二名が起用され、一名は代官所に詰合い、交代期
月を立て四月ないし五月に代合いに勤番した
『南部地形
甲送書』
)。その間、一名は非番と称して盛岡にあったが、日常は
「郷村
藩庁に出仕して、勤番代官と連絡をとり上意下達、下意上申の取次役の任に当った。任期は三年間
)を原
私説』
則とし、代官に対する役料米は任地、時期によって一様ではないが、両鹿角の代官については別表の如くであっ
第7表両鹿角代官の役料米の変遷
(単位:駄)
『御金米銭御取締吟味方』)
『安政6年御定目』
た。
明治二年五月一六日をもって代官所は廃止され、代官
は闕役となった。『明治四年士族書上』によれば、花輪
代官であった太田郡左衛門は新県への事務引継ぎのため
同年五月一日付をもって毛馬内代官を命ぜられたとある
が、その終末については不明である。