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く者も相次いでいる。毛馬内御給人大森薗右衛門の譜
「系〓
譜考。
に、享保一三年(一七二八)福岡御与力勤め由
「花輪諸士不足ニ付」駒ケ嶺清助と共に引越を命ぜられて花輪へ移った。同一五年花輪町が再び中野吉兵衛へお
預けとなるに及んで毛馬内代官所へ引越を仰付けられ、毛馬内に住居することとなったと記されている。元文四
年(一七三九)三月毛馬内御与力駒ケ嶺清助は、松山番所定番勤務を命ぜられたが、その願書に「尤九ケ年以前
松山村ニて居屋敷下し置かれ住居仕り候間」と認められている
「雑
書』
)。
知行所書上
領内各通に給所を持つすべての諸士について、その貢租形態始め給所事情を書上げさせたもの
元文三年(一七三八)『諸士知行所出物諸品井境書上』がある。然しこの『書上』には残念
ながら欠本があり、内容の全体を把握することはできない。第五節貢租一四九ページに挙げた表は、現在知り得
る範囲で作成したものである。また同表の下段に、天保一〇年(一八三九)『南部盛岡藩諸士御給人等知行所書
上』に記載されているものを対照的に掲げている。上段・下段の石高には殆ど変化はみられず、天保に増加して
いる部分は主に知行新田の披立による加増分である。
その表にみられる通り、一村一給人即ち一円知行の形態は極めて少なく、一村が数人の給人に分割知行される、
いわゆる相給の形態をとるのが普通であった。相給は郡内数村にまたがる例もあるが、むしろ他郡を含めてのも
のが多く、数郡にまたがることも決して少なくなかった
幕末期における花輪・毛馬内両通の各村高、およびその御蔵入高と給所高内訳を、第一六表に掲げる。この表
は「年月未詳・花輪御官所村々郡分高書上帳」
秋田県史』資料近世
編所収立山家文書
)に拠った。年月未詳とあるが、安政元年(一
八五四)現在のものとみられる。