テキストを表示
鹿角の御給人
御給人とは、広い意味では俸禄を支給されたものをいうが、後には特に地方在住の諸士の呼
称となり、時代によって在給人、所給人などとも称している。藩士に関する庶政は、すべて
鹿角御給人
老中(家老)統轄のもとに目付の支配するところであったが、所給人は代官所の支配をうけ、その職掌も代官所
管内の諸職が任務であった。そして特命をおびて藩直属の職務を遂行する際には、一時的に「勤中盛岡支配」と
なるのが慣例であった。
藩政初期における両鹿角の所給人については不詳ながら、享保九年(一七二四)四月改め花輪御給人(出4
ともあり
五駄二
六駄
として渡部文五郎(
)、関左五右衛門(
)、松浦喜太夫(
二駄一
人扶持
)の三名及び『系胤譜考』によって佐々
入扶持
人扶持
木新助の名が知られる。その後漸増し、明治二年には両鹿角にて一五七人、通別にして花輪通八四人、毛馬内通
七三人という大量の御給人が存在するに至った。
一般に金上侍
これ等御給人が増加する原因には、藩財政の窮迫から「差上侍」(
を召抱えたことがあり、時期
と記述される
第一七、
的にみれば安永・天明・天保期に急増していることが知られる(〓
)。
一八表
御給人すべてが差上侍であると誤解されては意に反するが、次に示す資料によって一端を知ることができる。
〔安永二年(一七七三))
一、此度御勝手向為御補金、御礼金指上候ハゝ、新規知行高被下置、御取立被成下旨被仰出、御割合左之通
一、御給人御与力共ニ十石ニ付金四十両の割
、牢人方十石ニ付金五十両の割
、新規御与力共ニ十石ニ付金七十両の割
一、御与力より御給人格間に願上候得は、知行高無構金六十両、但し新規御取立共ニ御同様之御割合
一、在御給人盛岡御給人ニ相成候の者金四十両の割(『盛岡市史』所収宮古市津軽石「盛合文書」