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御蔵高と給所高
盛岡藩の惣高を解説して『御高色分御役立大意』は、「惣高と申は御蔵、給所、寺社、与
力、御免地高の事に候、又御蔵、給所と高分取調候節は、御免地高は御蔵高エ属、寺社、
与力高は給所高エ属候事」と述べている。御蔵高はまた御蔵入高とも称した。
惣高
御蔵高藩の直轄地の石高
蔵高藩の直轄地の石高
地高山守・堰守・御境古人の持地に対し諸上納金の一部あるいは全部を免税にする土地。天保
肥高山守・堰守・御境古人の持地に対し諸上納金の一部あるいは全部を免税にする土地。天保
六年を基準にして古御免地・新御免地の区分があり、対象その他に差があった。
六年を基準にして古御免地・新御免地の区分があり、対象その他に差があった。
給所高藩士・所御給人が宛行われた知行所の石高
寸力高与力が宛行われた知行所の石高
社高神社・仏閣に宛行われた知行所の石高
神社・仏閣に宛行われた知行所の石高
寛永一一年(一六三四)の惣高二〇万五、五五四石のうち御蔵高は一〇万一、八四〇石、給所高は一〇万三、七
六〇石で、その構成割合はほぼ一対一であった。その後御蔵高が給所高の増加をやや上回って推移し、天保八年
(一八三七)には御蔵高六二・四七パーセントに対し給所高は三七・五三パーセントと低下している。その原因
は重直代まで積極的であった新規召抱の地方支給の給与が、重信代の寛文以降原則として御蔵からの俸禄に切替
「身帯御加増分
えられたことや(
)、寛保以来開発新田の藩士給所高繰入れが凍結乃至保留された
「盛岡藩御国
住居諸士』
)こと
地被召出之類
にあったとみられる。
ての中にあって鹿角における御蔵高の割合は、花輪南部氏・大湯南部氏・松館両下田氏等高知の諸士や、上
中級藩士の知行所が広く分布していたため、全時代を通じ三〇パーセント台で推移したのが特徴である。しかし