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近世の土地制度は、全国的に同一規準で施行した太閤検地によって確立したと云われている。小田原の陣の後、
豊臣秀吉は、天正一八年(一五九〇)秋奥州の平定に着手し、会津黒川城において奥州の総検地を指令した。従っ
て、南部領鹿角郡においても太閤検地は施行されたはずであるが、資料が伝存せず明らかではない。しかし太閤
検地は貫高や刈高の表示を廃して石高表示したことが特徴の一つであることから、その転換時期によって検地実
施の年代を推測することが出来る。
鹿角における石高表示の初見は、南部利直が波岡六左衛門(顕則)に宛てた慶長六年(一六〇一)一一月一七
日付知行状である。
鹿角之郡大里村におゐて百石、糠部郡浄法寺之内五日市村におゐて為加増百石、合二百石遣之、知行可仕者也。
慶長六年十一月十七日
慶長六年十一月十七日利直御重判
波岡六左衛門
(『系胤譜考』)
(
これより以前、南部信直が羽黒修験の在庁に宛てた年代不明ながら六月二九日付の書状が伝存している
『岩手
。同書状は、南部家が鹿角郡柴内村にある羽黒権現の社領を検地したことに係る抗議に対する返書で、差
県史』
出人である信直は慶長四年一〇月に死しているから、少なくとも慶長四年(一五九九)あるいはそれ以前のもの
である。つまり、鹿角の検地は慶長四年六月以前に行われていたことが傍証される。
〓いで、元和元年(一六一五)にも行われた形跡がある。これは元和二年に諸士に宛行われた利直知行状に散
見するもので、同年六月二一日付下田治太夫宛書状には「京郡松館村二百七十二石三斗余、夘ノ年検地出高共に