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に、米産地帯とは認められ難い位置付にあったことを容

易に窺い知ることが出来る。

このようにして開始された天和の粟歩制であったが、

仮に制度としては元禄期から宝永初年まで存続したとし

ても、当初から定着しなかったのではないかという疑問

を残している。その理由の第一は、制定された粟歩は一

ツ四分二厘四毛であったにもかかわらず、初年度の実和

率は二分減の三ツ二分二厘四毛であった点である。理由

は、凶作であったからに外ならないが、制度として初年

度から挫折したことを意味している。

第二には、初年度である天和二年から次期検見制が復

活したと推定される宝永四年(一七〇七)までの二六年

間に、不作、凶作、飢饉が断続して一三回もあったこと

までの三年間は連続して検見使が立てられている。右のうち元禄六年の検見は、藩主行信が襲封後の初入部(初

めて国入りすること)であったために行われた総検見であり、これを例外としても、違作の年が二年に一度の割合

第38表凶荒による盛岡藩の損毛高

(高橋梵仙著『日本人口史之研究』による.

である。作況不定の場合には検見をする立前であったが、鹿角に例をとっても元禄四年(一六九一)から同六年

であったということは、裏を返せば検見もその割合で行われていたと推定され、とりも直さず粟歩を租率として