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天和元年(一六八一)の定目によれば、両鹿角の郷村に賦課された御定役金銭は、正月・五月の御礼金、江戸
御供走夫銭、詰夫銭、御小者銭、御材木金、正月・五月の御立木、正月へリナシ、五月薯蕷百連代、粒荏、御目
毛馬
花輪
花輪
薪、御鷹餌犬、水渋柿一
)、くるみ
、御馬買衆御入方代、御馬飼料草青引代、本御給人御礼金
内通
通
通
があった。『郷村私説』に従えば、それ等は従来現物上納の形態であったが、元禄年間に打続く凶作の中で、百
姓の訴願を入れて金銭代納に切換えたとしている。また『食貨志』によれば「元禄の末に至て借財四万両あり。
故に諸司各私智を奮ふて利を得るの策を献ず。故に始て封内諸郷役の諸色の品を價に換て銭を税すと云」とある。
しかし、天和元年の定目によれば、一部に現物上納の形態を残しているものの、既にその多くは金銭代納に移行
している。もちろんこの傾向は、単に両鹿角のみの現象ではなく、むしろ盛岡城下の周辺である岩手、志和の両
郡のみを現物上納地域に限定し、その他の地域は政策的に金銭代納の形態に移行した形跡が窺われる。さらに、
享保年間になると盛岡近郊地域も莚菰など数品を除き金銭代納の形態に移行している。前掲書が伝える元禄年
間移行とは右について云っているのであろうか。次に鹿角の郷村に賦課された税目のうち主なものについてみス
ことにする。
○正月・五月御礼金
〓・五月御礼金これは毎年正月と五月の両度、盛岡城にて行われる式礼に出仕するのを建前とし、そ
れに代って金銭を上納させたもので、天和元年(一六八一)、元禄四年(一六九一)の定目によれば正月・万
月とも高一〇〇石に付砂金二分宛の高掛によって賦課したが、この賦課率は藩政末期まで変動がなかった。
但し『郷村私説』は御役金銭すべてのこととして述べているが、「これ等は御代官別に割増等も無き様に相
見得申し候。唯金両替は、たとえば一両六貫八百文換ノ所、或は七貫文、或は七貫二百文換に取立候事、南
通に相見申し候」とあり、金貨納、砂金納を建前としながらも、銭に換算していたこと、かつ時代と地域に
よって換算率が一様でなかったことを垣間見ることが出来る。