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○ヘリナシ領内の諸役屋ならびに江戸屋敷などで使用する畳の代料である。天和元年、元禄四年の定目に
よれば、高一〇〇石に付一〇畳、一畳に付金二厘とあり、特に花輪通については、「右のうち、五十三畳へ
リなしにて花輪御城、松山番所へ遣す」とみえる。しかし、享保年間に入るとこの税目はみえないが、嘉永
年間の記録によれば代官所の御役である郷役の中にみえる。
〇五月薯蕷百連代幕府に献上するための野芋百連の代料である。盛岡藩の時献上
李節献
上品
)は「在着御礼
騒燭二種一荷、三四月中御馬、暑中かたくりの粉、七月より以後初鮭、二番鮭、八月より已後初鶴、初菱喰
白鳥、在府年ばかり十月御茶、鯛、冬中鮭披、薯蕷、初鱈、若黄鷹、寒中雉子」とある中の薯蕷代である。
天和元年、元禄四年定目に、高一〇〇石に付金八厘二毛宛とみえるが、藩政末期まで変遷はなかったものと
知られる。
)粒荏代荏はシソ科の一年草で、燈油の原料である。天和元年、元禄四年定目では、高一〇〇石に付壱
斗宛とあり、当時現物上納であったことを伝えているが、享保年間には既に金銭納の形態に移行して、高
〇〇石に付銭三五〇文とみえる。その後の変遷はなかったものと知られる。
品夫金江戸屋敷に常詰させた陸尺仲間の雇用費である。安政二年『大小末々迄人数調積』によれば、当
肘一六〇人を数え「内、百人御供登、一九人馬喰馬附登、春登四一人御参勤年ふらり登、但、御在国年は百
入詰番之事」とみえる。なお、『御勘定所七棚仕様付帳』によれば、江戸詰夫人足「八幡丁作兵衛請負就被
仰付候。日雇代一ケ年壱人ニ付十二貫文之内、御上より六貫文、御百姓より六貫文、作兵衛エ相渡」とある。
元禄四年定目によれば「高百石ニ付二匁二分七厘、但し二月九月両度に上ル」とみえるが、既にみえる天和
兀年定目と同賦課率であり、その後についても藩政末期まで変遷はなかったものとみられる。但し、明治四
年の大蔵省への報告によれば「高百石ニ付永一貫目文宛高掛を以て納め候」とあるのをみれば、その改訂は
女政年間以降のものと推定される。なお永一貫文とは金貨にして一両、砂にして五匁のことである。(『御
広間御番子心得留』)。
○走夫銭
天銭江戸屋敷の小使雇人を走夫といい、それ等の者の雇用費(給金)である。天和元年、元禄四年定