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日には、高一〇〇石に付一歩宛とみえるが、享保年間には銭二貫三〇〇文と、金納から銭納に移行している。
この賦課率は廃藩まで変遷はなかった。
○小者銭
坂村々より壮健の者を選び、陸尺仲間と称して召抱えた者の給金である。天和元年、元禄四年定日
いは、高一〇〇石に付四匁二分とみえるが、享保年間には、前々より砂五匁と伝え、廃藩時には「永一貫文
宛、高掛を以て納め来り候」とある。
○御材木金
平国元ならびに江戸屋敷の屋根普請用の材木、柾代金として、天和元年、元禄四年定目では高
)〇石に付二歩とあるが、享保年間からは、前々より高一〇〇石に付砂二匁五分とみえる。嘉永二年頃にお
いても変遷はみられないが、廃藩時には「高百石ニ付五百文、高掛を以て納め来り候」としている。
御月薪月々の勝手用として当初現物上納であったとみられるが、天和元年、元禄四年定目には「高百石
「付一ケ月三駄宛、但し正、五月の外十ケ月分、壱駄金七厘ノ直」とある。年間にして二匁一分となるが、
藩政末期まで変動はなかったと知られる。但し、遡っても安政年間以降と推定されるが、廃藩時には「高百
石ニ付、永四百四十二文宛代料として、高掛を以て納め来り候」とみえる。
○麻糸江戸にて勝手用に徴収したもので、天和元年、元禄四年定目では、高一〇〇石に付一貫七〇〇匁ハ
割合を以て現物上納であったとしている。しかし、享保年間には、高一〇〇石に付、砂一匁二分五厘に改め
られており、以降については少なくとも嘉永年間まで変遷はみられない。廃藩時には「高百石ニ付、永二百
五十文ツゝ代料として納め来り候」とみえる。
水澁柿天和元年、元禄四年の定目には、毛馬内通に三七〇盃とみえる。しかし、その後享保年間までの
間に賦課対象外になったものとみられ、『御金米銭御取締吟味方』では、向中野・見前通、日詰・長岡通竺
に散見するものの、毛馬内通からは除外されている。
○み天和元年、元禄四年の定目では、花輪通にあって、高一〇〇石に付七斗とみえる。当時、現物上
納であったことが知られる。享保年間には全領のうち三戸通と花輪通のみにみられ、花輪通について云えば、
局一〇〇石に付、銭一貫七五〇文と金銭代納に移行、その後においても賦課率に変化はなかったとみられる。