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なお、天保九年(一八三八)の応接に際して、毛馬内代官所が支配の郷村に徴用した普請役は人足一万一、五
六六人とあり、当然花輪通に於ても同規模の普請役が賦課され人足が徴用されたものとみられる。
覚
一、御人足
壱万千五百六十六人惣御高割
内九百壱人松山御普請人足
千人御役屋分
〆千九百壱人
引残り
九千六百六十六人大湯ェ出人足
但し、山中毛文字より神田村御境渡場迄、御普請人足割合如此。
(『天保九年御巡見御用扣帳』汲川文書)
御据郷割
御据郷割とは、代官所の経費を支配区域の村方に賦課した、いわゆる地方税的性格のものである。
仙据郷割のはじめは不明であるが、『郷村私記』によれば「文政十二年に漆戸藤右衛門様勤中に
相据候よしニて御勘定所ニ御定目帳御座候」とみえるほか、「其節より当時ニ至り諸色の價高直ニ相成、其上御
用も繁多ニ相成候事故(中略)、過年の入増ニ相成候事故、御代官により、或は申立、或は自分限にて別段諸品
代割付居り申候。彼是都合(高百石ニ付)十七八貫文程の割付に相成申候」といい、さらに特別の例であるが、
近年御用多端により別段ニ不時御用銭不足と申を申立、割付申候。是を以て尤之儀ニ御座候得共、天保之末に
▽御代官所ニて壱ケ年二三百貫文ニ申立候所、僅か四五年の間に、当時七八百貫文程に申立仰付けられ候所も相
兄得申候」とも伝えている。いずれにしても、割付が年々急激に増額されている様子が窺われる。嘉永三年に毛