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第二章藩境としての鹿角

第一節南部・秋田藩境争論の推移

一、争論の発生

奥羽の大境

鹿角は、中世より陸奥・出羽両国の大境であった。近世初期の成立である『鹿角由来集』京郡

〓拾弐郷ニ侍四拾弐人住居ノ事の内、毛馬内村の項に「南部靱負領天文年中三戸ヨリ遣サレ知

行二千石、所ハ毛馬内、瀬田石、大欠、日暮躰、赤沢、楢柏躰、籠屋敷」と記されている。知行二千石はともか

く、その支配地の範囲に注目させられる。この記述は後に秋田藩が自領であると主張した日暮山、赤沢、楢相木、

籠屋などが、古くは南部毛馬内領であったという認識に裏づけられている。なお類書『鹿角由来記』『鹿角記』

などは、毛馬内領としてさらに鰐口屋敷、菅生躰などを加えている。

同じく天文(一五三二-五五)の頃、比内の地は浅利与市則頼の領地として知られる。浅利氏は永禄・天正にお

いて安東愛季との確執を経て没落し、比内は安東氏の領するところとなった。天正一七年(一五八九)南部氏は愛