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季歿後の内紛を衝いて大館城を占領し、比内の殆どを勢力下に置いた。翌年南部氏は安東(秋田)実季の反撃に

よって兵を退き、比内には浅利頼平が津軽から還住し安東氏の下で旧領の内七、三〇〇石余を知行した。文禄二

年(一五九三)秋田・浅利両氏の間に物成未進に絡む争いが起り、慶長三年(一五九八)正月頼平は大坂において急

死し同家は滅亡した。比内におけるこのような政権の不安定が、殊更に境界の混沌さを招いたものと思われる。

慶長五年の関カ原役後、佐竹氏が常陸から秋田へ国替となり、秋田氏は常州宍戸五万石へ遷されて去った。旧

領地の五四万石から、秋田・仙北両所を知行すべしという領知状だけで、知行石高も明示されないまま秋田氏初

め戸沢・六郷氏等の跡へ移ってきた佐竹氏にとって、まず実高の掌握と領境の確認、確定が焦眉の急務であった

に違いない。南部側の『奥羽境論記』

勝又

家文書

)などには「古境ト申ハ賤ケ峠、長木峯通、山ノ神林、菅ノ沢、

楢柏木、三ツ森、角掛山、韮平、二ツ石、大森、館ケ沢、右ハ大館と毛馬内ト相対申候古境也」、比内の「先主

城之助様御代迄出入モ之れ無く、慶長ノ始迄右ノ通ニ候処」慶長一〇年の頃から秋田領の者が右の境を越え猥り

に入込んで草木を剪取るので、毛馬内城主毛馬内権之助の家来が度々断りを入れていた。「大守利直公え申上げ

候得ハ、佐竹殿近年入られし人也、不案内之れ有る可し、能々断り候様」三戸よりのお指図であったが、秋田方

の越境はその後も続いた。とうとう南部大守より幕府大老本多佐渡守へ訴えでたところ「右御論山御裁許之れ無

き内双方手入仕り間敷ノ旨、双方百姓共え仰せ渡され」があったと、当初の経緯を述べている。

資源ベルト地帯

昭和六

花輪出身の地理学者故佐々木彦一郎はその著『山島社会誌』

)のなかで、鹿角の

年刊

位置を次のように説明している。

鹿角の境界たるや実に不思議な境界である。奥羽山脈の中央に位し水系から言へば羽後に属すべきであるの