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座候」。南部では峯一つ後の所で金を掘っている。山続きのことだから此辺にも金がでるかもしれないと掘って

みたところ少し掘出すことができた。「但赤沢山、南部と出入之儀ハ、入らざる事ニ候間、申す間敷曲、仰せら

れ候」と念をおしている様子が記されている。いずれにしても、森林、金山の二大資源を包蔵する領境地帯は、

その帰属をめぐって七〇年余に亘る両藩の対立争論を展開する原因となった。

二、論地をめぐる紛争

論地と農民の苦しみ

秋田側記録の「両境目之内承伝申候覚」

正徳四年・秋田

県庁所蔵文書

)は大要次のように述べてい

○。慶長一〇年(一六〇五)長木沢の内中滝において秋田領大館・片山・沼館三村の

白姓が材木を伐採していた所へ、南部領大地・小坂両村から大勢押しかけ材木を奪い取った。翌一一年秋田領赤

沢で金を掘っていた米沢次郎兵衛なる者が多勢の南部の者に追い立てられた。当方の抗議に対していずれも南部

領であるからとの返答であった。然し同年南部の柴内与五右衛門が近くの深沢から、大館名主斎藤和泉へ山銭一

〇〇貫文を出した上で小羽柾を運び出している。また慶長一四年佐竹義宣より先の領主秋田城之助へ照会した所

「山ノ峠を越え十文字野と申す所境の旨」の返書があった。翌一五年、南部の者共が比内沼山で金を掘ったので、

家老渋江内膳が出張しその場所から境目通赤沢山札立場迄見分した。後に内膳は江戸に登り、比内沼山の件を赤

沢山の件と共に訴え出、南部からは桜庭安房が登った。その節老中本多佐渡守から、幕府検使の下る迄双方論地

違法

に手を入れぬよう留山とすること、もし手入れした方は理非なく越度

)とする旨を申渡された。

行為

この論地設定の経緯を、南部側『奥羽境論記』等に見ると次の如くである。慶長九年白根金山、同一〇年西道