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や草肥の採取、薪炭材の伐採、新畑新田の開墾な

ど、その土地に依存し生活していた周辺の農民にとっ

てまさしく死活にかかわる問題であった。

キリシタンの山狩

寛永一六年(一六三九)八

月、幕府より南部・秋田の

山中において切支丹を穿鑿するよう命があり、南部

側から奉行望月長兵衛・黒宮次郎三郎・佐藤善兵衛

が松山村へ、秋田側から小助川庄左衛門・高垣彦右

衛門・黒沢惣助が沢尻村へ出張した。双方から人足

二五人、杖突一〇人宛の都合七〇人が出て土深井渡

りに集合、館菱山峯から三ツ屋沢川切の間を狩立て

た。三日後再び同人数で楢相に集合し、長木山嶺か

ら沢目川添の間を狩立てたが何事も無く一応の穿鑿

を済ませて解散した。

この年一二月、秋田方から又々切支丹穿鑿を行う

と申掛けられ、南部ではもはや済んだ筈なのにどう

したことかと不審に思いながらも、同一四日楢柏に

第1図鹿角絵図-盛岡藩の主張