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わいて出合うよう手筈を定めた。その前夜、山中の切支丹が領内へ入ることを心配した南部方は峯通などに張番

の者共を置いた。沢合の明家二、三軒から人声がするというので張番共が不審に思って近づき、何者かと咎めス

と名乗る必要がないと云う。我々は切支丹穿鑿のため出張っている者だから是非名乗られよと四、五〇人程で詰

寄ったところ、推参なりとて四〇〇人余りも道具を取って刃向ってきた。さては切支丹か、搦捕れとばかりに抹

で打立てたら道具を捨て秋田領へ入ってしまった。逃げ遅れた者を捕えて事情を聞くと、切支丹穿鑿奉行衆の差

図によるもので、その奉行衆は先般八月改めの際には南部方の申立てた境のみに終始し甚だ不面目であったから、

今度は南部領内へ踏込んで出合いするのだと云っていたことも白状した。以上は後に多くの犠牲者を出した切支

丹事件の発端について、南部側記録

「奥羽境論

記』など

)の伝える概要である。

この事件は、意外にも南部側不利として経過した。秋田側の、一二月一四日山中へ出合い申す手筈で、此方の

検使が一三日晩に雪中のため籠屋沢新田の一軒に入り待機していた所へ、南部方人数が押掛け狼籍したとの主張

が通り、幕府は切支丹穿鑿を妨げた南部方不届と判断した。あるいは、南部重直が寛永一三年(一六三六)参覲

涯延、切支丹宗徒多出等の非違を理由に逼塞を命ぜられ、同一五年一二月漸くその逼塞を解除されたという背景

があったためかも知れない。翌年五月七日盛岡光台寺で毛馬内権之助の家人三人嶋内玄蕃(介錯人沼野作助)・和

田五郎左衛門(同佐羽内仁兵衛)・相馬嘉兵衛(同岩間左馬助)が切腹となった

秋田県庁文書『南

部御境目日記』

)。また毛馬内村肝

惠将監、籠谷村の百姓勘助・左衛門五郎・弥八郎・右衛門五郎の五人が打首となった。なおこの内嶋内玄蕃は

○鹿角御境留書』に柴内玄蕃とあり、別書には朽内とも高市とも記されて明確を欠く。責任者としての毛馬内権

之助政氏は、盛岡永福寺へ入寺しやがて病死している。大湯『大円寺縁起』に、権之助政氏は寛永一九年五月五