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日に卒しこの時家臣竹沢内匠が追腹して果てたとあるのをみても、その死は単なる病死でなかったことを思わせ
る。翌年、嫡子靱負範氏が四歳の幼齢なので境目預かりの重責に堪え得ぬとして大湯へ知行替、その跡へ毛馬内
三左衛門直次が移ったと伝えられる。切支丹事件は、鹿角に深刻な波紋を投ずる結果となった。また翌年になっ
てから秋田検使三人も鑓をもって南部の者へ深手を負わせ落命させたのは越度であるとし、杉山弥右衛門・安土
三左衛門・中田又左衛門が切腹を命ぜられている。
この事件の前後にも論地をめぐる紛争は絶え間なく、西道朴木峠西平にて南部の者が金掘りをしているという
抗議につづき、一七年秋田領沢尻・別所の論地内で南部の者がわらび根を掘り、一九年ばっかい沢論地内に新田
を開き、正保元年(一六四四)しねかり山で炭焼があったという類の抗議が相次いだ。
慶安三年の目安状
慶安年代に入り、境目論地のうち花輪境の西道金山とばっかい沢が焦点の一つとなった。
雑書』慶安元年(一六四八)三月三〇日条に「鹿角尾去山七曲りノ金山論地ノ由比内
より波岡勘解由左衛門・米田四郎兵衛所へ状来り候(略)論地ニハ無之由申遣し候様ニて花輪へ返事遣ス」とみ
入る。波岡・米田は、ともに花輪城代である。同じく同年夘月八日条「久保田老衆次田美濃守・梅津外記より西
道御金山論地ノ旨、状飛脚を以て遣ス」ともある。九月一四日、秋田の検使二名と十二所塩谷民部、同弟権七、
円所寄騎五騎、上下一〇〇人程が西道金山西平通りを見廻り十二所へ帰った。同一一月二二日西道金山は論地で
ある旨、江戸において秋田老衆から家老楢山五左衛門へ申入れがあった。慶安二年八月、秋田の検者が論地見分
に来たので此方検者として目時勘太夫らが出向いた。翌三年三月、花輪城代米田四郎兵衛が江戸登りを命ぜられ、
代って城代となった目時勘太夫も数日の後には花輪境目の件について江戸登りを命ぜられるという慌ただしさで