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当領の毎年草刈場としている鍋倉で百姓三人が萱を刈っていると、秋田領の人数三〇〇人程論地を通って入り

込み、その内三〇人斗りで右の三人を囲み打擲し小荷駄八疋を奪った。折柄論所見廻りにきていた山見共のうち

長九郎なる者が遠くから見掛け、走り寄って「論地を越え当領へ入って余りの狼籍、秋田方の山見衆は居られな

いか」と質したところ、大勢の中から黒羽織の者が出て理不尽にも刀を抜き長九郎に切りかかってきた。長九郎

は棒で打倒したが、大勢が脇差で向ってくるので是非なく脇差で切払った。実はその前日に秋田の役人衆から、

論地ばっかい沢西ノ方に馬五、六〇疋で萱刈しているとの申入があり、念の為山見に検べさせると論地で費を刈っ

ているのではなく、当領の毎年萱刈場にしている長崎という所で三人が刈っているだけであった。その翌日右の

如く当方朝夕の草刈場にまで踏込んでの狼籍があった、という経過である。

この事件で、山見長九郎は秋田領の百姓源十郎を切殺した簾により、翌年一一月二二日江戸評定所の判決で机

刑された。諸書留に「町井長九郎、秋田領葛原村源十郎」を斬殺すとあり、中にはこれを「境目落着ノ端ナリ」

「古今萬

(

声)と意義づけているものもある。長年にわたって論地が立入り禁止区域として未解決のまま放置されて

寛鑑』

たことは、双方農民にとって生活の破壊につながる問題であった。年月の経過にともない相互の不信感は募り

悠情の齟齬から一触即発の武力行使へ暴発するのは当然のことであった。これまで検使派遣に消極的な態度をとっ

ていた幕府要路もいよいよ解決に乗り出さざるを得なくなった。『雑書』延宝四年記事によるし

二日鹿角御論地山形江戸へ持参申す者出石源兵衛、臼井仁右衛門、中村七兵衛井古人八人、絵師三人、桜庭

兵助家頼湯瀬新右衛門、中野伊織家頼原田庄左衛門、午ノ上刻ニ盛岡発足罷登ル。

)九月二七日鹿角御境目山見六人罷上る様ニと江戸御奉行様方より御差紙参り候ニ付、山見市之丞、加平二、喜平二、