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翌廿八日六ニ御立ち江戸へ御上り候由、鹿角より今日
七左衛門申越候」とみえる。晦日盛岡へ帰着した七左
衛門は直ちに登城しているが、一〇日余の幕府検使の
応接に関係者の緊張は極度のものがあったであろう。
五月六日、鹿角古人六人と出石源兵衛、臼井仁右衛門
は再々度江戸へ向けて発足した。そして遂に六月四日
幕府評定所において老中久世大和守外役人中出座のも
とに、論地に墨引し、裁許状を裏書した絵図が双方に
下付され、さしも長年月にわたった境界争論に終止符
が打たれた。
その裁許状を、やや長文であるが次に掲げてみる。
奥州南部領鹿角郡花輪村、毛馬内村ト羽州秋田領沢
尻村、十二所村、味噌内村、茂内村、別所村、扇田
村、大館山境諍論ノ事裁許申付ノ覚
、米代川より南方ばっかい沢境ノ由、秋田領申すと
雖も境ノ内南部領古田之れ有る条、秋田領申す所非
分也、南部よりハとふかい渡り境ノ由申し、高梨館外
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〓3図延宝五年御境図裏書(秋田県庁蔵「御境図」から