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二、境塚・境柱の協定

境塚を築く

いわゆる御墨引によって領境の決定をみた後、南部・秋田双方協議のもとに領境すばり合と袈

衾掛坂に境塚を築くことになった。延宝五年七月二一日、その立合のため出石源兵衛、臼井仁

右衛門が盛岡を出立し、築立を終って八月六日に帰っている。

その時、相互に取交した証文は次の通りであった。

〓のし、久のてる

、今度御検使様仰渡されノ通、すばり合ニ境塚弐つ、左右嶺ニ同弐つ、四つ共御絵図ノ表境御墨筋ノ通、双方立合ニ

て築申候。自今以後破損之れ有るニ於てハ双方より立合修覆仕る可く候。後証ノ為此ノ如く書付取通し候。以ト

延宝五丁巳年七月廿八日

(双方の加判者は南部側花輪村弥之助、左平次、七右衛門、秋田側十二所八郎右衛門、刑部左衛門、兵蔵

一、今度御検使様仰渡されノ通、袈裟掛坂より南の方戸長根沢頭迄境塚三ツ、袈裟掛坂より北ノ方ハ嶺通ニ壱ツ、沢由

二壱ツ、御検使様御見分ノ節狼煙立候嶺通ニ壱ツ、御絵図表境御墨筋ノ通、双方より立合右六ツノ境塚築申候。自今

已後破損之れ有るニ於てハ双方より立合修覆仕る可く候。後証ノ為此ノ如く書付取通申し候。以ト

延宝五丁巳年七月廿八日

(双方の加判者は南部側毛馬内村金兵衛、重三郎、儀左衛門、秋田側扇田村近右衛門、茂内村甚兵衛、大館和泉

(「延宝五年秋田領境ニ付申合」)

るずばりの天、二に業さまの規經出スリ

右のうちすばり合四つの塚は七月二六、二七両日に築きあげ、その規模は「スバリ合弐ツノ塚敷指渡壱丈弐