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米を捨てて逃げ去った。米一駄はお取上、一駄は重蔵へ下された。

○同三年正月毛馬内の山元において同所与力木村丹右衛門が密木数百本を剪取る事件があり、毛馬内御山奉行中

野平八、高橋長左衛門がそれぞれ差扣(自宅に引籠り謹慎)となった。

同様のことが『公事抄』等にも数多く書留められているが、そのうち数例をあげると

文政六年一二月土深井御境川原館下タを俵物を背負った数人が通り抜けようとしたので声を懸けると、その俵物

を捨てて逃げ去った。俵物は大豆六駄片馬、米壱駄片馬で、半分はお取上半分は取押えた者に下された

○天保六年二月花輪町商人某が去年鉄物四駄を十分一半紙を以て秋田へ附送りしたいと土深井御番所へ申出た。中

を改めると延鉄であった。主人の留守に手代が取図ったものと分ったが、延鉄はお取上、主人は慎の処分となった。

○同年六月御境古人某は瀬田石村大柳坂下で密米を取押え、金子をとり内済にした簾で大迫へ追放された。

○同年一二月大湯村百姓某が大湯南部家家来某に頼まれ、山中駅へ密米を両度附越した簾で過料銭をとられた。

鹿角において文政から天保期へかけ特徴的に多い公事に、贋銭作りがあった。一つには原料を入手し易かった

)ともあるが、共謀者に秋田領の者が多いのは、領境近くに作業場をつくり手入があれば素早く秋田領へ逃げ、

様子をみて立帰るという行動をとるためであったといわれている。

○文政七年四月柴内村住居の秋田生れ三郎と申す者が疑わしき細工をしているというので、御徒目付を派遣し吟味

の上片付となった。これには毛馬内美濃家来や御給人、町医、百姓等も懸合があった

○天保四年一二月毛馬内町多助が花輪町太郎、柴内村吉と申合せ、同村の山中にて贋南鐐

二朱

判銀

を拵え使用した