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ので、籠前において打首を云渡された。掛り合いの者は追放と慎を命ぜられた。

)同年一二月毛馬内町元吉五郎当時多七が四五年前より桜庭肥後家来や鍋屋某等と申合せ、秋田津軽の者と結託

し贋金を拵えていたので、引廻しの上籠前において打首となった。

○天保四年一二月毛馬内町下小路出生当時無宿忠助が秋田大館の条右衛門という贋金拵えの上手から習い覚えよう

として子之松嘉之松の両人を仲間に引入れた。主謀者の忠助は、籠前において打首となった。子之松は野田へ追放、

秋田生まれの無宿金掘嘉之松は御境において追払となった。

○同六年三月花輪谷地田町小兵衛は去年秋田大館の曲師から同人兄の細工した贋金三八両を頼まれ、三戸へ持参

して捕えられ、籠前にて打首と決まった。

○同七年一二月毛馬内誓願寺門前重次郎善右衛門は津軽の多吉という者が桂沢の山中に小屋を掛け細工をした際

新取等に雇われ手伝ったので牛滝へ追放。同じく毛馬内町孫九郎は、贋金拵えと知りながら地銀および延銅を調達し

たので野田へ追放。同所中町喜八は、贋金拵えに土蔵を貸し蔵番をしたので宮古へ追放

○同一〇年五月毛馬内御給人の嫡子某は天保四年秋田仙北出生市助と申合せ、黒森山にて贋金細工を致し帯刀お

取上げ籠舎を命ぜられた。

)同年一〇月大湯南部右近家来某は毛馬内町万四郎へ贋一朱銀三〇〇程持参し、御吟味中に欠落した。

等々、鹿角が領境に接していたことから、このような事件が相次いで起こっていた。