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町裏通橋々」が、寛政四年以来手入がないため朽損し危険となったので、「年々上納仕り置候堰代銭ノ内五拾十

貫四百五拾弐文」を下され普請を行う旨、藩の御勘定頭から申渡しがあった(

「雑

書』

。天保四年には「大堰新規掘

替」が行われ、惣掛として吉田新六が当っている一

花輪南部家

『諸御用留帳』

)。

また盆地南部の三ケ田周辺の田地を広範に潤している三ケ田堰は、毛馬内九左衛門の水利事業と伝えられる。

岩崎上ミ

初め熊沢川・夏井川落合付近(

")から取水し大久保辺まで延びていた小堰を、更に幅を広げ三ケ田村ま

手とも

で延長させ、それによって大久保・荒町・野尻・杉山の枝村が発達した(

高瀬吉五郎『鹿角

盆地集落の話』

)。

享保・元文期には、現在見られる動脈的な主な用水路は大半開鑿されていたとみえ、前出の知行所書上に次の

ような表現がある。ごく短い文ながら当時の景観を思い浮かべることができる。

冠田村右所用水大湯川相用申候。此川はい、やまへ、かちか有之候

沢尻村右所用水大湯川より揚堰仕、相用申候。小雑魚類御座候。

柴内村右所不動川、乳牛川、高市川と申川御座候。此水を以て中堰、小堰ニ仕分、用水仕候

草木村右所前谷地と申野形御座候。此辺ニ小堤八ケ所築、用水ニ仕候

藩の新田開発政策も長い間にはT余曲折の経過をたどり、例えば元禄一〇年(一六九七)二月一八日には「御

『御家被仰

家中侍知行所畑返、切添、向後仰付けられ間敷由仰出さる」

)との示達がなされた。いわゆる知行新田

出』巻八

の部分的な一時停止の措置で、畑返とは、水利の良くなった畑形を田形に転換することであり、切添は田の地続

きを切開いて面積を拡げることである。また寛保三年(一七四三)八月には、去る元年暮より下し置かれた給所

新田について「御差支之儀有之候ニ付、惣御検地御通遊ばされ候迄、右下し置かれ候新田御吟味之中御預かり置」、