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知行新田
鹿角の諸例をみると、所御給人が初めに野竿新田証文を与えられて開発を行い、開発後本知行に
加えられているのが大部分である。従ってその新田場所は小区域に限られ、かつ諸方に散在し、
初期畑地開墾が主であったといわれる。御給人層の力では用水堰や堤の開鑿は無理な事業量であったろう。野竿
高とは野形に竿入(測量)しての見積り高で、開田開畑後の精御検地の結果不足高・過高が訂正された。このト
うに士分が自らの費用で新田を披き、その高を知行高に算入するのがいわゆる知行新田で、検地の後小高帳が下
附された。所御給人の経済力は概して弱小であったから、初め願出の披立年限内に新田開拓を終えることができ
カ、やむなく年延願を繰返すことも多かった。例えば花輪御給人関右平太の畑返披立にかかわる年延願をみると、
最初の願書を天保五年(一八三四)一一月に提出している。
一、
花輪御給人関右平太
知行所花輪通御代官所小豆沢村之内ニて高三拾八石六斗五升六合、内六石三斗六升三合加賀助地畑高之処、至て湿地
一て作合不熟ニ付畑返田形披立仕度旨、天保三年八月願之通仰付けられ三ケ年中披立仕る可き旨申上、追々披立手入
仕候得共披揃兼候ニ付、来未年より酉年迄三ケ年中披立年延仰付けられ下され度(下略
(『雑書』天保五年一一月九日条)
回めは天保八年九月「其後年延当年迄仰付けられ候得共、今以披立相揃兼候付、来戌年より子年迄三ケ年中
午延仰付けられ下され度」。三回め天保一一年一〇月「近年不作続ニて手入届兼候付、来丑年より夘年迄三ケ年
中年延」を願い、四回め同一四年一二月、五回め弘化三年一二月は共に五カ年中の年延、六回め嘉永四年一一月
更に五カ年中の年延を願出ているが、その結末は『覚書』からは確認できない。ほかに年延願の文面には、「追々