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地域であった。
"雑々秘録』では、鹿角郡のもつ経済力を大迫通と共に「花輪通毛馬内通は中の御代官所なるべし」と評価し
ている。花輪通の内「上田」の斗代歩附である七ツ四分の一石三斗を課せられている花輪村・大里村・小豆沢村・
狐平村・鏡田村・甘蕗村・尾去村七カ村について、「御城下南通ノ位になされしも分らず、故ある事なるべし
云々とし、どうして盛岡以南同様高率の歩付なのか屹度理由のあることだろう、厨川通の一石二斗五升の村々に
較べても見劣りがすると疑問を表明している。次いで毛馬内通は「壱石三斗の斗代なし、壱石弐斗ハ峠なり」と
述べている。
近世を通じ、鹿角の農民の手になった農業経営・耕作技術に関する直接的な記録は発見されていない。凶作
凶作・
米田家文書『萬
飢饉の覚書等に断片的に書き残されている程度である。新斗米村米田善助「附留覚」
)に、天
覚帳』享和三年の内
保四年(一八三三)「弐百十日七月十九日ニ御座候所、田子稲ハ七月十日頃より、はすり穂出テ弐百十日頃迄出
〓ニ御座候、岩か白ひけハ弐百十日ノ頃漸々はすり穂出テ申候、場所より能所ハ七月十六日頃よりはすり穂出テ
申候、黒ひけ餅ハ田子稲同様七月十日頃出テ申候、送レ候場処ハ八月始頃稲出テひがんニ懸花さき是ハ青干同様
一相成申候」「吸白虫候ニ付七月十日頃より右虫田壱人役ニ付壱盃位ツゝきせるニて引、水懸からみ打候所虫死
絶候由、手前ニて構不申候」と記されている。「はすり穂」は走穂、出穂の初め頃ぼつぼつ出る穂のことで、穂
の出加減は二百十日を基準に見その上で豊凶を判断していた。稲の品種として「田子稲」「岩か白ひけ」「黒ひけ
餅」の名が見える。虫害の発生も憂慮すべき現象で「吸白虫」はウンカのこと、その防除法を別項(安永九年
に「油壱人役ニ壱盃位宛引但しきせるニて斗り引、水沢山ニ懸、させぼうニてからみ打、稲ノ本え水はり草取同