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下の杉は残し置くこと、槻・栗・桂は勿論雑木であっても猥りに剪取ってはならない、杣小屋入用の材木は雑木に限

り山奉行の指図によって取ること。材木を他領へ出す時は山奉行の改めを請け、用水や所々の障りにならぬ様川下げ

すること、杉材木の外は一切御墨引御境を越えてはならず、若し法度物を紛れ出した場合は越度とする。山火事を出

したならば日前の内と雖も証文を取上げ、且金増に願出る者があれば山留にし掴に申付けるであろう、との条々を記

している(毛馬内山本家文書)。

○宝永四年八月花輪町孫右衛門が津軽青盛ノ五郎兵衛を金元とし、大湯小国杉山先年瀬川治兵衛の剪跡共に生木は

本口二尺廻り以上、寝木埋木切かぶ立枯を御礼金一二〇両差上げ四カ年中剪出商売することを無〓で申付けられ証文

を請けた。材木は大湯川へ出し地払にし、残りを仙台・津軽・秋田へ売払うこととして木数を書上げ他領出証文を下

げ渡された(同前)。

○花輪御代官所の内熊沢かっち・兄川かっちは、先年柾山に六日町忠兵衛が請け、次に御用柾を岩館甚右衛門、栗谷川

小太郎等が仰付けられた御山で、享保一八年正月から五カ年中鈍屋町六兵衛が「剪かふ根木此度柾ニ願上げ」、段々

に盛岡へ附出し御十分一を差上げた外、商売することを願出て許された(『雑書』)

元文四年正月桜庭兵右衛門が毛馬内御館武具蔵井家棚建直の費用を得るため荒川小滝山から槻五〇本・桂八〇本・

瀬木七〇本剪出し(請人毛馬内町甚六)秋田出することを許され、米代川の川通証文を与えられた(『雑書』)

○寛保元年秋

兒保元年秋盛岡本町利兵衛が熊沢御境ぶな森よりおっこ生木材木剪出、地他払の証文を請け山働す(『雑書』)。

○宝暦六年古遠部・新渡部・相内三カ山が御側御手山となり、同一一月杉材木を能代へ廻すべく上関作兵衛らが能

代へ出向いた(能代市史資料『三輪文右衛門旧記抜書』)。

○宝暦一二年四月田名部町佐藤庄左衛門が山本甚五兵衛に宛て、新遠部山杉材木津軽出について金主を引請ける旨

の一札を出している(毛馬内山本家文書)。