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例えば、右の文化一三年三月の項で樫とあるのは「けやき」のことと思われ、目通し六尺廻りとなればその径
はほぼ二尺である。なお柾は、杉柾目を薄く割った屋根葦材。木舞は、ふつう軒下の垂木にわたす細長い材か壁
「御国
の下に組みわたす木をも言うが、この場合「こば、屋根板、まさ」
)のことと思われる。笹板も同じく多
通辞』
く屋根に用いる割板、桶樽木とあるのは、桶材や樽材として木取りした材木のことである。
右にあげた地他払の材木が殆ど毛馬内通の産出に限られているのは、花輪通の大半が御銅山
阿御山であることに因る。御銅山附御山は、専ら御銅山入用の春木や木炭の供給に役立てら
御銅山入用・
窮民救済など
れていた。『雑書』記事の中には、例えば天明三年二月三ツ矢沢村百姓共が立菱山御墨引際
の杉雑木を二カ年中御礼金五〇貫文で剪取り、御銅山用諸材木・〆木等として買上げ方を願い出たこと。同年一
○月花軒田村百姓共が二ツ森御林から松二、五〇〇本を取り、御銅山御用に松春木、〆木の納め方を願い出てい
ること。享和二年二月長内村善六が盛山御山の杉二五〇本を払下げ御銅山御用六尺留木八、〇〇〇本売上げたい
として御礼銭一〇〇貫文上納と剪跡等へ杉七五〇本植立を願い出て許されたこと等が散見される。
ほかに窮民救済のために材木が払下げられた例も少なくなく、例えば宝暦大飢饉後貧窮に苦しむ乳牛村百姓手
当のため、明和元年(一七六四)閏一二月同村新田添立林から松一尺から二尺廻り迄五〇〇本剪取り地払するこ
とが許された
山本甚五兵衛
宛「遣証文」
○天明大飢饉の折北林之助が困窮の大湯百姓共救済のため、同六年九月知行所来満
山の内東津久保沢にて楢木五尺から三尺廻り迄一、五〇〇本を五カ年中剪取り柾に挽かせ払うことを願い、同じ
く寛政四年(一七九二)一〇月にも来満山の内山中沢・大渡ノ沢・大川端の沢・桂久保・戸倉森の沢井銚子滴
より下道にて桂瀬ノ木六尺廻り以上一〇〇本樫八尺以上五本剪取り地他払することを願い出て、許されている