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には「春木山鐇役御証文」を老中御判で発行したことを記している。毎年花輪土場には、大堰から揚げた三、〇
○○間もの春木が整然と棚積みされたという。松浦武四郎は『鹿角日誌』のなかで「此川(大堰)大川との別れ
〓ニ大なる棚を結、是より水を引来る。則ち山ニて切取薪を此處にて小川へ流し入る也。其仕懸五里八里上より
来り、薪一歩として人の肩を労セずして流し来ること感じ可き也」と述べている。
恐れ乍ら願上げ奉り候事
、御銅山附夜明嶋御山之内上松倉御山ニて私共焚料薪壱人ニ付壱間半積剪出申し度存じ奉り候。尤兼て仰出置かれ候
御停止木エは堅く相障り申間敷存じ奉り候。御憐愍を以て願之通仰付けられ下し置かれ度恐れ乍ら願上げ奉り候。
山子面附左之通
、仁八一、嘉助一、左太一、七助一、三太一、兵助一、辰之助
右之通り蜜御札下し置かれ度恐れ乍ら願上げ奉り候。已ト
文政六年未正月
(差出は三ケ田村願人左内・藤四郎・喜之助・三部・作十郎、長内村願人治兵衛・甚五兵衛、御山守徳兵衛・
作之丞、肝煎甚蔵)
渡部傅助様
(渡部家文書)
『御銅山記』には、御銅山附御山にて春木炭相働き候者へとして「一、鐇札炭釜札壱枚三拾弐文宛、右札数御
銅山より花輪御代官え差遣わし右御役銭取立て同所より盛岡え年々差遣わす。尤面付帳之通右札御代官所より此
兀え差遣わす」と記されている。御銅山の春木は主に御銅山附御山の内から伐出され、小沢出し・大川下げの後