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西道口の土場に積まれた。寛政年間における御銅山の年間消費量は三、三〇〇間(一間は竪壱丈・横壱丈)と見込

まれ、ほかに白根・不老倉・水沢三山分三、〇〇〇間が必要とされた。春木とともに御銅山に欠くことのできな

い燃料に大炭・小炭があった。大炭の焼場所は大部分熊沢山、水沢山、地沢山、谷内山で、年間御銅山五五万貫、

日根二〇万貫、不老倉水沢両山で三〇万貫の見込であった。阿部恭助日記『あつめ草』

『鹿角市史資料編

第二集』所収

)に、大

炭方も在々を廻っているが在炭が無く、はかどらせ様にも見当がつかず困ったものである、松館村から大炭上納

になり漸く吹方手続きができた(文久三年九月記事)、花軒田村佐藤兵衛にて大炭釜を柴内山へ附け、五貫匁入

○俵一釜出の大釜三枚打出した(慶應元年四月記事)などと見えている。

恐れ乍ら願上げ奉り候事

一、御蔵附湯瀬村御山之内神田ノ沢御山ニて御銅山御用炭焼出し渡世仕り度候間、御憐愍を以て大炭釜壱ツ御札頂戴什

り度願上げ奉り候。

釜焼面附左之通与三治

右之通御山下し置かれ度願上げ奉り候。尤前々より仰付置かれ候御停止木江ハ堅ク相障らせ申間敷候間願之通仰付け

られ下し置かれ度願上け奉り候。以上

文化十年酉正月

(差出は願人谷内村与右衛門、湯瀬村御山守重兵衛・与七・重助、同村肝入直左衛門)

長嶺権吉様

加藤曽右衛門様

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加藤曽右衛門様(関直左衛門『御用扣』