テキストを表示

特用林産物

〓角は、二戸・三戸地方とともに良質な漆の生産地として知られていた。大湯南部家『御次留

帳』によって、幕末における大湯地区の漆植栽状況を僅かながら把握することができる。まず

毎年一二月になると南部土佐から御注進漆二五匁(生漆)を上納するのが恒例とされていた模様である。御注進

漆とは献上の漆のことで、藩庁大納戸から請取状が出されている。弘化四年(一八四七)、向う一〇カ年の植立・

三分七分の御取分として杉・栗とともに宮野平村・倉沢村・一本木村・風張村で漆六六〇本、腰廻村で漆八八〇

本、関上村で漆八〇〇本、堀内村で五五〇本、箒畑村・扇平村・土沢村・赤川村で漆一、〇五〇本、大湯町和助

が村杉桂ノ沢より横道迄で二〇〇本、夫々植立願を出している。なお慶應元年七月、漆植立懸り渕沢啓八に代り

中村定衛が命ぜられている。

又政元年(一八一八)八月、毛馬内の弥惣次・新右衛門から大湯北家御用人衆へ願書にて、かねて御支配山か

ら紺屋灰を焼出し秋田出の商売渡世を続けてきたが、御年数も切れるので引続き継御証文を頂戴致し度い。これ

まで冥加御礼銭を御上様(藩)へ三〇貫文、御屋敷様へ六〇貫文上納してきたが秋田表も至って不景気で捌け難

くなっているので、御屋敷様へは五五貫文に御引銭下さる様に、と願い出た。同年一〇月には大湯村百姓から同

様に、かねて「来満御山之内より雑悪木朽木を以紺屋灰焼出、地拂井秋田拂仕」ってきたが、尚又来年より是迄

の通り御上様への冥加三〇貫文にて仰付け下され度く、それにより諸郷役や夫伝馬等を滞り無く相勤める旨を願

『日記書留覚』

い出ている(

)。紺屋灰は大湯川上の百姓共の専売に等しいものであったが、やがて非合法の密灰が

町井家文書

相次ぎ大湯の生産者は甚だ苦境に立つに至った。天保一〇年(一八三九)上納金の減額を願った外、度々の願書

には「所々より密灰沢山に相出」「御憐愍を以て灰方類商売相出でざる様成下し置かれ度」等と、大湯村惣百姓・