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帚畑村惣百姓の名を以て嘆願を繰返している(

『御次

留帳』

菅江真澄の『十曲湖』(文化四年)に、次の文がある。

)。

赤川といふやかたをへて箒畠につきたり。此一村は、たもぎ(あおだも)といふ木の灰を染物の屋戸に貨(う)り、亦

西郡(さわふたぎ)といふ柴の灰を紫屋に売ぎ、巨差不奈(あかしで)といふ木をこりてふみもの(履物)を作り、

これを市路にあきなふを業とし、雪ふれば山に入て、もはら狩りすといふ。

(未来社版『菅江真澄全集』による)

と山村の生活を叙しているが、この内西郡は紫根染の媒染灰として欠くことのできないものであった。

はかに、天保一二年九月大湯町権七より来満山中において椀木地材を伐採し、その塗方商売をしたいとの願い

出があった。当時椀木地類の生産は田山村が多かった。同年一二月大湯の孫吉が御領山より竹節その外薬種を掘

出し渡世にしたいと願書を出した。その頃竹節の需要があったものか同一五年八月大湯の紺屋灰山師半兵衛も薬

種掘立渡世したいとして、竹節は大館吉郎右衛門と申す者と取組むことを願い出ている。弘化四年五月、大湯町

百七が薬用竹節・うば百合・茜の商売五カ年中一手買受け大坂へ向けたいと願い出たが、茜については差支え有

りとして許されなかった一

「御次

留帳』

)

)。

毎年夏には大湯南部家から盛岡の藩主へ御献上の生蕗及び蕗粕漬・蕗鮨漬が送られるのもまた、恒例の行事で

あった。