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馬改ならびに掴駒御用として派遣されて来た役人に対する経費は、各村々が御用中賄代、御野馬飼料代とし
て分担させられていた(
「毛馬内通各村々嘉永三年…郷割銭夫伝馬)
諸御人足共書上帳』毛馬内町井家文書
)。
また同文書によれば嘉永三年に派遣されて来た〓駒役人は次のとおりである。
御側御目付小寺三五郎上下五人同牛馬定役梅内宇兵衛上下三人御野馬〓為御用佐藤佐重治上下四人
同御野馬改中嶋軍蔵上下二人
文久二年(一八六二)には、次のような代官所からの達が出ている。
、当駒二才御改掴駒御用之為、御目付伊東吉代見、牛馬役久慈円助、大更御新田掴駒御用相済、明二日此元着之旨
申来り候間、明後廿三日より御用中警固御同心両人ツ、旅宿前へ相詰候様致す可く申付け候。以上
八月廿一日三上磯十
多賀市郎
岩館源治殿
宕館源治殿(花輪南部家『諸御用留帳』川村家所蔵)
三上、多賀は花輪通代官、岩館は花輪南部家の家老である。
密馬の取締り
馬の売買は、本来正規の馬改を受けてから公設の馬市にかけるのが当然の義務である。しか
し中には隠し馬や密輸馬もあり、鹿角は他領と境を接していたこともあって、その取締りは
極めて厳重であった。
一、秋田領比内之日市ニ付、隠通る馬これ有る可く哉ト山廻之者ニ夜待申付け候処、大谷越ニて三ケ田村之何某鹿毛駄
馬四才一疋牽き通るを押え、下田覚左衛門披露ニ及び、馬ハ押え候者ニ取らせ、磔ニ懸け申す可き旨申遣す。