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また、それより前の文政八年(一八二五)五月の項には「あられ・ぢぶす・かちか」等の送り状と共に「一、

日五十文さしみほでう一枚一、四百五十文さばき庖丁一枚」の記載がある。

横浜家が知行地からわざわざ刃物・農具類を差立てさせ盛岡まで運ばせているのは、鹿角の鉄製品が他地域の

ものに比べて優れていたことを物語っているものである。

四、鹿角鎌

鹿角鎌

昭和一九年八月一一日、大湯の郷土史研究家浅井小魚に書簡をよせた岩手師範教授森嘉兵衛は、

渡部斧松と鹿角鎌の関係について大要次のように尋ねている。「文政年中(一八一八~一八三〇)

鹿角から産出する南部鎌は、秋田藩のそれに比して断然優秀でありまして、これを圧倒していました。それで秋

田藩足軽の子渡部が文政年中毛馬内町の鍛冶六左衛門の弟子となり鎌打法の秘法を受け、之によって南部鎌の輸

入を駆逐することができたとのことでありますが、これに関する資料を御教示下され度い」

この照会に接した小魚は早速同月一七日に「毛馬内町鍛冶六左衛門の裔嗣当主山崎宇善翁より伝聞」として、

つぎの内容の返書を送っている。

南秋

文政年中北浦(

より一壮者が来て、たっての願いで弟子となり、一年半程熱心に奉公した。渡部斧松と

田郡

いう者である。昼は工場で励み、夜は二階の寝間に籠つて学問をしていたという。帰国に際して「三つ星に一つ

引き」の紋所の羽織一枚を残して去ったが、故意か忘失かは分らない。さて此斧松は帰国の後、鹿角鎌の鍛造を

弄とし、藩の推奨により次第に拡張した。遂に鹿角鎌を駆逐し多年悩んだ鎌代支払の癌を除き、自藩自給の道を