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享保一四年において、毛馬内の造酒高は以上の様に四二〇石二斗であった。毛馬内通の人口に比して造酒高が
大きいのは、白根を含む周辺の鉱山の需要があったからと思われる。
二、藩政後期の酒造業
第五節鹿角の醸造業
天明期の酒造
安永から天明へかけて南部領内の酒屋軒数は減少傾向にあり、休箒や規模縮少を願出る者が
うに述べられている(
第13図酒屋爲
ていた。安永七年(一七七八)九月、御元〆御勘定頭共から家老に差出した伺書に次の上
「雑書』以
ト同じ
)。御城下・在々共に休箒を願出る者が数軒に及んでいるが、休箒は前々から三
カ年の御定目である。近年酒屋共の内不心得の者があって五年、七年の休箒を願い上げる者もいる。また至って
困窮となり酒商売を止める者もでてきたので、今後新酒屋を願出る
者には、以前の軒数に達する範囲で許可を与えたい。休箒の者の中
に継願を繰返し数十年休んでいる名目だけの酒屋がいるから、エ
の際整理しないと新酒屋の認可に差支えを生じるので、休箒三カ年
に限り後は酒屋証文を取上げることにしたい、というのである。な
お休箒の箒とは、ふつう杉の葉で球状につくられた酒店の看板を指
している。次いで天明二年(一七八二)五月にも同じ趣意から、祈
年少なからず潰箒があり格別酒屋数が減っているので造酒の願出が
有り次第吟味の上御証文を下し置かれる。休箒は前の通り三カ年を