テキストを表示
寛政の酒屋記事
四造米高については「但し去ル午年半石造仰出され候以前之米高ニ而御座候」とある通り、酒造制限の行わ
れる以前のものである。酒造株高四二五石に対し、半石造後の酒造米高が八六四石となるのは大き過ぎる様であ
るが、いずれにしろ天明大凶作以後の両鹿角酒造の実勢を示すものであろう。
「雑
寛政元年(一七八九)一二月に、毛馬内町酒屋弥兵衛は次のように願い出た(
)。かねて
書』
の心願により、去る夘年(天明三年)の飢饉と同様のことがあれば御救の足しに籾二〇〇
俵差上げることを申上げてきたが、近年凶作が続いているので籾上納の代物に二〇〇貫文を差上げたい。ついて
は白根御山へ昨(天明八)年より納めている御用酒の御代銭の内二〇〇貫文を「寸志上納銭」に当てていただき
たい、としている。毛馬内の酒屋から白根御山御用酒として多量の酒が納入されていたことを示すものである。
寛政期における酒屋記事は、ほかにも『雑書』からかなりの件数を抽きだすことができる。
○寛政四年五月
〓月花輪町長右衛門が二五石造酒を去年暮迄三カ年申付けられていたが、年数が済んだので猶又当年芦
より三カ年の継願を申出てきた。御勘定頭共が吟味を遂げた処、増石の様子もないということなので願の通り申渡した。
)同年五月花輪通酒屋作兵衛が願出るには、本石七五石箒の内、二五石の減石を去る元年造酒より三年暮造酒〓
の三カ年中御免をいただいてきた。格別高直の清酒は小さなこの場所では相捌き兼ねるので、今年暮造酒から向う万
カ年中、これ迄の通り減石を申付け下され度いとのことなので、向う三カ年中減石を申渡した。
)同年九月毛馬内町源右衛門が願出るには、同町市右衛門の造酒高五〇石を天明七年から引請け造酒してきた。
その年数が済んでも市右衛門は未だに造酒に及び兼ねているので、引続き当暮より来年九月迄の酒造を申付け下され
度い、とのことなので願の通り申渡した。