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られる。さらに享和以降についても次に摘記してみる。

)享和二年九月毛馬内町市左衛門が御請石五〇石箒のところ、同町弥兵衛へ寛政九年より去年寒造酒迄五カ年中貸

箒となっていた。年数が済んで返されたが繰合いがつかず、更に一カ年の休箒を願いでた。

○同年一二月花輪町徳右衛門・半助・喜八・斎七・権兵衛が、濁酒商売是迄の通り向う三カ年継続を許された。

)享和三年正月毛馬内甚兵衛が、濁酒商売が去年で年数済みとなったので、猶又当年より三カ年中の継証文を、御

礼銭是迄の通り一カ年三〇貫文宛として願出た。

○同年八月毛馬内町市左衛門が御請高五〇石の造酒商売繰合いつかず、同町弥兵衛に五カ年の貸箒となったが、弥

兵衛も不捌のまま年数明けで返してきた。再び休箒を願出ていたが、この度弥兵衛が金主の才覚をしたので、向う万

ケ年中亦々箒の貸借を仕り度い旨双方から願出た。

○文化三年二月花輪町権兵衛・斉七・喜八・半助・徳右衛門が、濁酒商売三カ年中継御証文を願出た。

○同年九月花輪町藤兵衛不如意に付去年より休箒となっていたが、当暮造より造酒を申出て許された。

○文化四年二月花輪町斉八・喜八・兵吉三名が糀室三カ所で一カ年御礼金三三貫文差上げ寛政一二年より商売して

いたが、年数が済んだので是迄の御礼銭で引続き当年より向う七カ年の継願をし許された。

○同年一二月毛馬内町弥兵衛が市左衛門へ返箒したい旨申し出、市左衛門からは当暮造酒に取付くべき所見込み立

たずとして三カ年の休箒を願出たが、二カ年中の休箒を申渡された。

鹿都屋『酒屋諸日記』

文化文政期は比較的平穏な時代であった。文政一〇年(一八二七)四月、盛岡城下

松尾御本社修繕普請料の石高割が、城下酒屋年行司より花輪年行司宛に届けられた