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以上のように密造酒が横行したのは、庶民にとって酒屋の酒は高価であったからである。近世後半に至って、

一般に入石の風習が多く行われるようになった。これは、農民が酒を買いやすい様に、秋の収穫時に米を酒屋に

預け、米一升と酒一升と交換する方法である。従って農民は酒税分を支払えば酒が安く手に入ったのである。入

石の習慣は昭和の初期まで続いており、酒値段の約五割が酒税であったとすれば、現物の米と同量の酒をそのほ

ぼ半額で買うことができたのである。

幕末の酒屋

弘化四年(一八四七)八月二八日松尾神社別当名代に毛馬内では次の四軒が初穂を上げている

一、弐百三拾弐文善兵衛一、百三拾弐文和-

一、百三拾弐文甚平一、同万助

右は当六月迄酒屋六軒ノ処、庄助、丹治相休み候ニ付四軒ニ相成、此の如し

(『酒屋御用書留帳』田村家文書)

このうち田口屋和七は糀屋専業となった。鹿都屋善兵衛は安政二年(一八五五)不調法の廉ありとして酒屋証文

を召上げられ、大里已代治がその跡の酒屋証文を請け、女婿清左衛門が屋号を「かどや」と改め現在に至ってい

る。豊口屋甚平は、甚平酒屋の名称で現在におよび、外に明治に入り高橋酒造店が創業している。幕末以降、毛

馬内の酒造業は小坂銀山の隆盛によって発展した。

花輪において幕末より営業している酒屋は、井桁屋(けたや)、治兵衛酒屋、関善、小濱屋(小又)、茂助酒屋

である。町通りが数回の大火に見舞われた花輪では、残存の資料が少なく正確な把握は困難である。慶應二年

(一八六六)創業の小田島治兵衛は、弘化元年大和屋治兵衛の名で松尾神社の御守札を請け、二三二文の御初穂を

上げている。