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隔たりがあるものの寛政六年の酒屋多平の跡かも知れない。天保四年から一一年迄休箒しており、安政六年濁酒

問売を仰付けられている。さらにその前安政三年から増石し計一〇石となったが、間もなく同六年に造石差留と

なり、文久元年に至り二〇石の造酒証文を与えられている。なお揚酒は、造酒に対し商酒のことである

酒屋茂兵衛・孫太郎については、『御次留帳』嘉永四年(一八五一)正月の項に、「乍恐奉願上候事」として大

意次のような願書が載っている。私共は天保一一年から造酒を許され、濁酒一手に商売し冥加御礼のため一カ年

七〇貫文ずつ上納してきた。然るに去る嘉永三年は至って作合が宜しくなく、酒造の見込みが立たないので、色々

の手段で金主を頼んだが、その内に米相場も引上げられ且「御上様御用御買入米厳しく御村留仰付けられ候趣」

にもなって、私共では到底米の手配ができなくなった。ついては造酒仕込にも及び兼ねるので、当年ばかり御礼

銭を半分にお引銭していただきたい、と述べている。また同年一二月にも両人から、「去秋井当秋共ニ尾去沢御

銅山御入用米御買入ニ付、村々エ仰付けられ御買入遊ばされ、其上各御用相済申さざる内ハ厳敷村留仰出ださ

れ」、私共では手配致し兼ねる上、米相場が格別引上げられ当惑している。よって「御礼銭三拾五貫文ニ御引銭」

下さる様に、と願出ている。なおこれらの願書は、ともに大湯南部家内役人山口庄次郎、谷地藤次郎宛に提出さ

れている。

嘉永六年一二月の藩の達(

『覚

書』

に、当年旱魃のため米穀が出不足なので「造酒之向御定目高之外ハ勿論

都而無用之菓子類売出候てハ、米穀多く相潰れ候儀扣申す可く候、万一北地異変等之節、御国中米穀過分無之候

てハ御国民一統格別困窮ニ至候儀も斗り難く、容易ならざる事ニ候」と述べ、米穀を猥りに費やすことは固く無

用とし、造酒御定目高を厳守するよう強調している。米穀節約の理由に「北地異変」をあげていることにも、慕